リハビリ
ふと、なぜ文章を書きたくなるのかを考えてみたら、答えは感情や思考を出したいからというシンプルなものだった。
マグマのように溜まった感情や考えを体内から出したい、そう思う時に文章を書こうと思える。
反対に、感情や思考が溜まっていない状態だと、何を書いていけばいいのかわからなくなり、文章を書くのが進まない。
ここ数日はそんな日々だった。
ゲームを解禁してしまい、それにのめり込んでいた。
ゲームをしている間は本当に何も考えなくて良いので、無思考のまま現実の時間がどんどんと過ぎていく。
賢い人なら、ゲームを息抜きとして上手く活用できるのであろうが、私の場合はゲームに人生が奪われてしまう。
もちろんその時は楽しくて楽しくて仕方ないのだが、終わってしまうと、時間を無駄にした罪悪感とか虚無感に襲われる。
楽しいだけで終わってしまって感情を揺さぶられることがないので、感情をアウトプットしたいという欲求がなくなってしまっている。
そういう心だと他のことも身が入らない。ゲームが終わった後もSNSでダラダラと時間を過ごしていた。
そして昨晩、流石にこの状況が続くのはまずいと思い、断腸の思いでゲームを禁止することにした。
自分の意思力を信じていないので、友人にゲームを預けた。
朝からゲームがしたいという欲求に駆られているが、手元にないのでやりようがない。
仕方がないので本を読んでみる。
すると、書きたいことがどんどん出てくるではないか!
感情も思考も揺さぶられまくりだ。久しぶりにこの感覚と再会できて感動している。
感情が先走るのを抑えながら、どうしたら上手くこの気持ちを伝えられるのか考えて文章を書く。
いつもなら書く内容に困って、なかなか筆が進まないのだが、今日は天才ピアニストになったかのようにスルスルと手が動いていく。
この感覚がたまらなく心地よい。
久しぶりに文書を書いたので書くスピードが遅くなってしまっているが、いいリハビリになっている。
表現することの楽しさを身を持って感じている。
この感覚が毎日続いていればいいのに、どうも上手くいかない。
1ヶ月に1回あればいい方だ。
今がピークで、1ヶ月後には何を書けばいいのかわからなくなっているだろうし、もう指が動かなくなっているだろう。
そしたら、ゲームやっていいことにしよう。
そんなこと考えていたらまた無性にゲームをやりたくなってきた。
文章を書けた喜びと、遠くに住む知人にゲームを預けてしまった後悔が入り乱れた感情を今ここで吐露したい。
何に悩んでいるのかわからないことが多い
最近仕事の相談をされることが増えた。
なぜ私に仕事の相談をしてくるのかというと、仕事がバリバリにできるからという訳ではない。
どちらかというと相談しやすいからという理由の方が多そうだ。
しかも相談と言っても、具体的な相談でないことが多い。
「今これこれをしていて、これこれで悩んでいるんですけど、どうすればいいですか」
という、相談された側としても答えを差し出しやすい相談は滅多にない。
そういったものよりも、
どちらかというと
「なんだか最近思い悩んでるけどどうしましょ」とか、
「全然うまくいかないんですけど、どうすればいいですか」とか、
かなり漠然としたものの方が圧倒的に多い。
一見、愚痴のように感情をただ吐き出したいのかと思い、とりあえず話を聞いてみることにしたが、どうやら本当に答えを求めているようだ。
こうなってくるとなかなか難しい。
というのも本人も何に悩んでいるのか漠然としているからだ。
まず何に悩んでいるのかを明確にすることから始めないといけない。
それさえ分かれば意外と答えは出やすい。
でも何に悩んでいるのかを客観視するってなかなか難しいんだよなあ。
暗闇をさまよっている感じがして、どこに歩き出せばいいのかどうかわからない。
せめて現在地が明確になればいいのだけど、どこにいて、何につまずいているのかがわからない。
実際自分もそういう暗闇の中にいるようなものだ。
何に悩んでいるのかわからないけど、とにかくこの状況のままではいけないという感覚はある。
何に悩んでいるのかわかれば、心も楽になるのだけど、それがわからないから辛い。
だから相談を受けたとしても、一緒に暗闇をさまようことになる。
ただその時間が結構ありがたい。
他の人の悩みを紐退いていると、自分の悩みを明確化される。
そうなると、その人の悩みも明確化されてくる。
相談してきた後輩の悩みが明らかになると、大抵もっと仕事ができる先輩にそのアドバイスを求めにいく。
「なんで、私に答えを求めに来ないんだ!!」
悩みを明確化するまでが私の役割になっていて、それ以降は見放されている。
本当に腹立たしい。
今の悩みは人望が足りていないことです。頑張ります。
パパ活女子になりたい PART1
最近思う。パパ活女子が羨ましい。
何もしないでも、お金を振り込んでくれて、タワマンを借りてくれて、インスタに華やかな生活をアップするだけの生活をしてみたい。
そう思うことが増えた。
コロナで暇な時間をSNSに費やすことが多くなり、パパ活女子と思しき人の投稿を目にする時間が増え、私の中の嫉妬や妬みなどの邪悪な感情も芽生えることが多くなったからだ。
つくづく私はSNSに向いていないんだなあと思う。
本来なら、人の投稿を見て微笑ましく思うべきなのに、そういったプラスの感情より先に妬みというマイナスの感情が出てくる。
なぜ、よくわからない芸能人風の人が毎日銀座や赤坂の高級なお鮨屋さんに行けているのだろうか。年に何度も海外に行っているのだろうか。
妬みなのか嫉みなのか怒りなのかわかならない黒々とした感情が体の底から湧き出してくる。
ふと我に帰り、黒々とした感情をこれ以上肥大させないため、見ていたSNSをそっと閉じる。
時間を持て余しているので、こういう生活をすることが増えた。
さて、話は逸れてしまったがパパ活女子になってみたい。
何もしなくてもお金が貰える環境で生活したら、どれだけ幸せになるだろうか。
そんなことを妄想することが増えた。
お金も時間も無限にある状態だったら何をするだろうか、と考えてみる。
まず高いレストランに行って、ブランドものをたくさん買って、高級車を乗り回すだろう。
スポーツカーに乗って、銀座のお鮨を食べに行く。ザ・お金持ちという感じだ。
間違いなく気分が高揚する。
次に海外旅行にも行っていいホテルで絶景を眺めたい。
そんな生活を妄想していると、「あ、この生活はすぐに飽きるな」というのもすぐにわかった。
平凡な暮らしから華やかな生活になったことで、
その新鮮さに心惹かれるものは間違いなくあるだろうが、
おそらく1ヶ月もしないうちにその生活が日常になり、魅力的なものではなくなる。
だからSNSに投稿して、承認欲求を満たそうとするのだろう。
お金がある生活をしても、きっと生活それ自体の満足感を、今とさほど変わらないのだろう。
じゃあ何がしたいのかと言われれば、友人と食事をして、愛する人と一緒に過ごし、1人の時間は文章や映像を作っている。
結局今の生活に似た日常を過ごしたがっているようだ。
それなのに、なぜパパ活女子が自分よりも幸せそうに見えるのだろうか。
幸せな一面を切り取った写真しか見ることができないからかもしれない。
本当は彼女たちの中にも、ドロドロとした感情はあって、日々悩みを抱えているのだろう。
ただSNSではそんな一面を見ることができない。過去の投稿にあるのは華やかで色鮮やかな一面だけだ。だから、ずっと幸せでいるのではないかという錯覚をしてしまう。
結局憧れているのは、華やかで贅沢な生活というよりは、ずっと幸せで笑顔でいるような精神性なのかもしれない。生活は今のままでおそらく十分なはずだ。
SNSのせいで、本当はいるはずもない常に幸せな人間という幻想が作り出されていて、どうやら私はその幻想と格闘していたようだ。
パパ活女子は常に幸せだ、というレッテルを貼って、そんな幻想と闘っていた。
間違いなく負け戦だ。
幻想を幻想と割り切ることができるのならいいが、当分はできそうもない。
またパパ活女子に憧れ出す日がくるだろうから、負の感情が溜まったら、また文章にして吐き出そうと思う。
#パパ活
ズボラな人間だからこそpaypayを使っている
最近はもっぱらpaypayで支払いをしている。
つい先日まではQR決済の使い方がわからなくて敬遠していたのだが、キャッシュバックキャンペーンをきっかけに重宝するようになった。
散財癖があり、なるべくキャッシュレスは使わないようにしていたので、paypayもキャンペーン期間しか使わないだろうなと思っていたのだが、終わった今でも使っている。
というのも、これまで使っていたクレジットカードなどのキャッシュレスと違って、ズボラで浪費家な私と非常に相性がいいのだ。
浪費家な私は、残高が見えないうえに、上限金額までなら、どこまでも使うことができるクレジットカードとは相性が悪い。
お金を使っている感覚がないので、どんな高額なものでも気軽に買ってしまうし、そこに後ろめたさや躊躇などはない。
だから毎月カードの請求日になると、高額の請求がくる。
あまりにも高額なので、不正な請求がされているのではないかと思い、利用明細を隈なく見るが、間違いなく自分が使った分なのだ。
そして、過去の自分を叱責し落胆するとともに、どうやってお金を工面するか毎月頭を悩ましていた。
簡潔に言えば金銭感覚が狂っていたのだが、流石にこの生活をするのはまずいと思ってクレジットカードはなるべく使わず、現金を使うようにしていた。
ただクレジットカードに慣れていたので、一回一回バックから財布を出して、現金を出したり、しまったりするのが本当にめんどくさいと感じていた。
そんな矢先、普段よく行く飲食店で使うと20%戻ってくるというpaypayのキャンペーンを見つけ、それをきっかけにして頻繁に使うようになった。
最初はキャンペーン適用のお店のみでの利用だったが、メリットに気がつくと、基本的に支払いはpaypayだけになり、むしろpaypayが使えるお店にあえて行くようにもなった。
正直にいうと、今現在paypayのポイント還元率はそこまでよくない。普段使っている楽天カードの方がポイントがいい。さらに使いやすさで言えばsuicaやpasmoに劣っている。一回ごとにアプリを稼働させなくてはいけないのが結構面倒だ。
では、なぜpaypayを利用するかと言えば、それはチャージ式であるからだ。
チャージ式と浪費家の相性は素晴らしく良い。
あらかじめチャージした金額までしか使えないので、1週間に使っていい金額をチャージして、それだけしか使えないようにすると浪費をしなくなる。というよりもできなくなる。
最初に一定の金額をチャージするので、使えば使うほど残高が少なくなっていく。それに伴い焦燥感が生まれる上に、残高がゼロになれば、自動的に使えなくなるので、浪費するのを防いでくれる。言うなれば、現代版のプリペイドカードだ。
クレジットカードであれば使用金額が増えていくことに焦燥感が持てるものの、金額が反映されるのが遅いことがあるうえに、上限までは際限なく使えてしまうので、それがストッパーにはならない。
その点が大きな違いだ。
自制が効かない人間にとっては、決められた金額しか使えないというのはとても大きなストッパーになる。
suicaも似たような仕組みなのだが、suicaだとよく行くスーパーや居酒屋などで使えないことが多く、結局クレジットカードを使ってしまうのでそこが問題だ。
その点paypayは飲食店などで使えることが多いので、非常に重宝している。
もちろん自動でチャージできる機能もあるのだが、それを使ってしまうと際限がないので利用しない。
決められた範囲でやりくりするというのは、一見ストレスに感じるかもしれないが、やりくりする工夫が色々できて楽しい。
paypayに携わっている人間ではないので、他のQR決済でもいいのだが、多分相当な理由がない限り乗り換えはしないだろう。
強いて言えばもう少しポイントの還元率をよくして欲しい。
そうすればpaypayから離れることはなくなるだろう。
朝活日記 PART2 「お寺に行くことで、1日のスタートをきれることに気がついた」
今週から始めた朝活がなんとか今日まで続いている。
初日に関して言えば、朝活ができた満足感で、その日一日中、充実感を持って過ごすことができた。
その次の日も、仕事の前に20分程度朝活をしたことで、自己肯定感が高まり、一日中テンションを高い状態で過ごすことができた。
テンションの高いまま職場に行き、後輩に朝活の良さを熱弁したことによって、完全に煙たがれてしまったので、必ずしもテンションが高いことは良いことではないのだと実感した1日でもあった。
問題は昨日からだ。
なんとなく朝活自体には慣れてきたものの、慣れのせいで気分が上がらない。
気分が上がらないので、朝走るのがなかなか辛い。
初日なんかは、「どこまででも走れるのではないか」という爽快感を携えてランニングしていたが、昨日は「決めたことだから走ろう」と義務と捉えてランニングしていた。
スタートダッシュをきるというよりは、1日のスタートを朝に全て使い切ってしまうような感覚で、日中のパフォーマンスがそこまで上がらない。
上がらないというよりは完全に落ちている。
昨日なんかは、ランニング以外何もしなかった1日といってもいいだろう。
こうなってしまうと朝活の意味がなくなってくる。
日中のパフォーマンスを上げるためにやっているのに、朝に疲れ切ってしまったら本末転倒だ。
これはなかなか問題だなと思い今日もランニングに向かった。
モチベーション的には昨日と同じように、さっぱり上がらない。
走っている最中も、しんどさしか感じなかった。
途中あきらめて歩きながらどうにか家の近くまでたどり着くものの、このままではいけないという感覚があった。
何かを変えなくては長続きしないという、惰性を積み重ねた人間の鋭い勘が働いた。
そこで帰り道に家の近くの大きなお寺に行くことにした。
基本的には年末年始にしか行かないが、今日はなぜか寄ってみようという気持ちになった。
参道を歩き、こんなところにカフェがあったのかと小さな発見をしていると門が見えた。
立派な彫刻がある門をくぐると、一気にダイナミックなお寺が目に入る。
青空と白いお寺のコントラストが絶景であった。
そこだけ時が止まっているかのような静けさで、通勤のピークの時間帯にも関わらず、都会の喧騒を忘れさせてくれた。
今日は小銭を持っていなかったので、お参りはせず、池を泳いでいる鯉や小さな滝を見ながら過ごしていた。
すると自分でも驚いたことに日常から離れた空間に一時的に行くことで、緩んだ心がリセットされ、ハリが出てきた。
成功者はお寺や神社によく行く、という話をどこかで聞いたことがあったが、それはきっと日常から離れた空間に行き、自分の心を落ち着かせることで、リスタートをきるためなのではないかと思った。
そう考えると、1日の始めにお寺に行くのは、スタートを切るために最適かもしれない。
ダラダラ過ごしていると1日のスタートの鐘を鳴らすことができないが、参拝することで1日のスタートの合図になる。
家に帰り、自分の仕事をしたあと、今この文章を書いているが、昨日よりもシャンとした気分で文章をかけている。
いつの日か、参拝することが日常になってしまうのではないかという不安感はあるが、明日からもこれを習慣づけていきたい。
5円だけ持って行って毎日参拝しよう。そうすればもっと心を整えることができるだろう。
もちろん「毎日参拝すればご利益があるのではないか」という下心が、お寺に寄る理由の半分を占めていることはいうまでもない。
#朝活
#お寺
朝活日記 PART1
朝活を始めた。
具体的には、朝にランニングをした。
昔から朝活に憧れはあったのだが、今まではどうしてもそれができなかった。
仕事が忙しいとか、家庭の事情とかの正当な理由ではなく、すべて自分の怠惰のせいだ。
単純に朝起きるのがしんどくて、今まで朝活をしてこなかった。
そんな怠惰な人生を歩んできたのだが、最近のコロナのせいで、どこにも行かず、何もせず、
夜中までゲームをして、昼まで寝ている自分自身に嫌気がさしてきた。
時間を無駄にしている気がするし、人生が停滞している気がする。
人生を前向きにするために色々な人に相談した結果、やっぱり朝活は良いということになり、これを機会に実践してみようと思ったのだ。
そしておととい人生で初と言って良いくらいの朝活をしてきた。
朝、6時半くらいに起きる予定だったが、気合いが入りすぎていたのか5時くらいに目が覚める。
もう少しだけ寝ようと試みるものの、二度寝ができず、仕方がないので6時くらいから散歩に出かけた。
最初は音楽を聴きながらとりあえず歩いてみた。正直にいうとかなり眠気がある。
最初の10分間くらいは、もう帰ろうかなと朝活をしたことに後悔していた。
しかし、15分くらいすると少しずつ調子が上がり始め、周りのランニングをしている人たちに触発され、いつの間にか自分も走っている。
ペースはゆっくりとしたものだったので、かなり気持ちが良い。
気がつけば、なんだかんだで、10キロくらい走っていた。
家に帰り、朝ごはんを食べたあと、この文章を書いているのだが、
結局、眠い。
正直、この文章を書き終えたら寝ようと思っている。そのくらい眠い。
じゃあ、全くの無駄だったのかと言われればそんなこともない気がする。
朝から運動したことで、達成感を得られたし、朝から時間を有意義に使えたという満足感もある。
肉体的、精神的な変化はおそらく数週間から数ヶ月続けてみないと出てこないと思うので、マイペースに、気長にやっていこうと思う。
朝活日記スタート!
お題「#おうち時間」
#朝活
弱さを見せられる環境に居られる幸せ
弱さを見せることが苦手だった。
弱さを見せたら必ず誰かがつけ込んでくると思っていた。
おそらく学生時代のいじるという風潮がその先入観を作ったのだろう。
欠点がある人のことをいじることで笑いにする。それが当たり前の環境で青春時代を過ごしてきた。
だからこそ、弱みを見せれば笑いにされるとビクビクしていたのかもしれない。
その感覚がつい最近まで抜けなかった。
ただ最近その感覚がなくなった。
何がきっかけかはわかないが、自分の弱さを出すことが怖くなくなった。
むしろ積極的に出すようにしている。
自分の弱さを見せることでへりくだると言ったネガティヴな理由から来るものではない。
むしろ自分の弱さや今抱えている悩みを素直に話すことによって、建設的な議論をしたり、有益なアドバイスをもらったりするポジティヴな理由によるものだ。
社会に出て数年経つがまだまだ若造だ。
そんな自分の頭では、解決できない問題にたくさんぶちあたってきた。
今まではそれを自分の力だけで解決しようとしていたので、
もし解決できなさそうな時には、その問題を無視することで自分自身から逃げていた。
結局自分の弱みを見せないことで、自分が停滞していた。
今は自分自身から逃げることはなくなった。
自分の弱さを見せてもいいから、前に進みたいと思う。
そう思えるようになったのも弱さを見せても、それを批判せず受け入れてくれるような環境があったからだ。
もし、弱さを受け入れてくれるような環境でなければ、今でもなお弱さを隠し続けていたのだと思う。
弱さを受け入れて、それに真摯に向き合ってくれる環境。そういう中で仕事ができることに本当に感謝している。
環境が人を変えてくれるというのはよく聞くが、まさに環境によって自分が変わることができたと思う。
自分の弱さを見せられるようになることで、人間関係もより円滑になった。
自分から曝け出すことで、相手も心を許してくれるようになった。
弱みを見せ合い、共通の課題を発見した上で、そこから建設的な会話をすることによって信頼関係を作れるようになった。
次のハードルはそれを認めた上で、自分が前に進むためにどれだけ行動に移すことができるかどうかだ。
弱さを見せられるまで10年くらいかかった。不器用な生き方かもしれないけど、また次のハードルを超えられるように、自分に向き合っていきたい。