結局恋人とセックスすれば幸せ
幸福感に包まれている。
昨日の夜からだ。
恋人にあってセックスをした。
肉体的にも精神的にも満たされるものだった。
幸せを感じるためにはセックスすればいいという自分の単純さに少し落胆したが、それと同時に自分が幸福感を感じることのできる人間だと再確認できた気がして、安心感もあった。
ここ最近は、どうすれば人生が満たされるのかずっと悩んでいた。
何をしても満たされない気がしていた。周りの人に相談してみても、こういう状況だから仕方ないよ、とコロナのせいにする回答ばかりだったが、なんだか納得できなかった。
コロナが終わったとしてもこの満たされない気持ちは続いていくだろうという直感があった。
本やインターネットのどこかに幸せになるヒントが落ちているのではないか思って、色々な人に意見を見てみたが、そんなものどこにも落ちていなかった。
そんな憂鬱な気持ちを抱えたまま、恋人に会うのも申し訳ない気がして、会わずに帰ろうかとも思ったくらいだった。
憂鬱ば気持ちを抱えながら、私の最寄り駅で集合して、帰り道にお弁当を買って自宅で食べることにした。
あとは流れのままに、進んでいった。
正直に言って、オーガズムに達することはできなかったが、それでも満足感が果てしなかった。
自分の人生でも五本の指に入るくらいのものだった。本当の幸せだと胸を張って言えた。
本当に幸せを感じる時は、誰とも比較しない。自分たちだけの世界に入ることができる。SNSで誰かと比較し、マウンティングを取ることで、自分が幸せな人物だと誇示しようとする人もいるが、きっとそれは相対的な幸せだ。それは本物ではない。
本当の幸せは誰とも比較ができない、絶対的なものだ。
その絶対的な幸せを今までいくつか経験している。一年に何度もあるものではないが、これからもそれを経験するために生きている感じがする。
これまでは理性で幸せを見つけようとしたが、どうやら自分はそこまで高尚な人間ではないようだ。
本能的に、肉体的に、何かをすることで幸福感を得ることができるタイプの人間だ。
憂鬱な気持ちになるとどうしても、頭を使ってその状況から抜け出そうとしてきた。
ただ本当にやらなくてはならないのは、もっと本能的に自分を喜ばせてあげることなんだろう。
セックス依存症とはまた違う。相手が誰でも良い訳ではなく、心が繋がっている相手だからこそこの幸福感を得られるのだ。
セックスをしたあと2人でアイスを食べた。
コンビニで売っているなんの変哲もないアイスだ。
そんなアイスが昨日はとにかく甘く感じた。
もう二度とあのアイスの甘さを感じることはできないかもしれない。
それでもその味を思い出すことで当分は幸せに生きていられる。
単純な人間だなあという思いを、喜びと共に抱いて、今日も生きていく。
お題「#おうち時間」
睡眠は大事だと改めて思った
最近文章を書くのを面倒に思うことが増えた。
このブログを書き始めた頃は、書くことそれ自体が楽しかったが、最近はどのくらいのviewがあるかどうかが気になってしまって、何を書けばいいのかわからなくなってしまった。
このブログを始めておそらく1ヶ月くらいがたつが、まさかこんなにも早く燃料が切れるとは思いもしなかった。
プロの書き手さんは本当にすごいなあと思う。
他の人のエッセイを読んでいると、どうしても自分の才能がないことに落ち込んでしまって、もうやめてしまおうかと思うが、そもそもお金が発生しているわけではないので、ここはもう開き直って、自分の書きたいように書いてみようと思う。
自宅待機になってから睡眠時間が増えた。
出勤していた時となるべく同じ時間帯に起きようとは思っているものの、どうしても遅くまで寝てしまうし、もし起きられたとしても昼頃にがっつり昼寝してしまう。
そんな日々を過ごしていく中で、一つはっきりとわかったことがある。
それは「睡眠時間が伸びると幸せな気持ちになる」ということだ。
これはもう当たり前なのかもしれないが今日改めて思ったので、文章にしておこうと思う。
今までの休日の過ごし方は、なるべく早く起きて午前中から活動するというものだった。
その方が一日を長く、有意義に過ごせるので、得した気持ちになると思っていた。
眠い目をこすりながら、朝からカフェに行き、優雅にコーヒーをすすりながら、作業をする。
日中は、友人などと出かける。
これはこれで素晴らしい時間だった。帰る頃には体に心地の良い疲労感を感じ、休日を無駄にしなかったことに満足感を覚えていた。
日を1日ダラダラ過ごしているという人の話を聞いて、なんだかもったいな気がしていた。
休日に過ごし方に対して、そのような先入観を抱いていた私だったが、この自粛期間はどこにもいくことができないので、先ほど述べたように惰眠を貪る日々が続いている。
以前であればこんな生活、許せなかったが今はこうする他ない。
最初の頃は1日を無駄にしている感じがしていたが、ぐっすりと眠られた日はなぜか幸せな気持ちになっていることに気が付いた。
ぐっすりというのはあくまでも主観的な判断ではあるが、よく寝たなと思えた日は、とにかく何をしていても楽しいし、ウキウキする。
そのおかげか、活動できる時間自体は今までと比べて短くなっているにも関わらず、その濃度が濃くなっているので、作業もとても捗る。
無理に早い時間帯に起きて1日作業してみようと思うと集中力も持たないし、いいものを作ることもできない。少し昼寝をするとやる気が出てきて、集中力がぐっと増している。
寝ることが体や心にとってどれほど重要なのかを改めて知ると同時に、反対に睡眠不足がどれほど害であるかも認識できた気がする。
また、このような生活をしているとどうしても生活習慣が乱れてしまいがちだが、たまにある出勤日が乱れた生活習慣をリセットしてくれる。
文章を書いていたらまた眠くなってきたので少し寝よう。
きっと起きた頃には日も沈んでいるだろうが、少し幸せになっているだろう・
お題「#おうち時間」
お題「#ささやかな幸せ」]
お局様
職場にいわゆるお局と呼ばれる女性がいる。
社員の年齢が比較的若い職場にあって、その女性は還暦を超えている。
高圧的な態度をとるわけではないが、とにかく自慢が激しいので、誰も口にしないが、良い印象は持たれていない。
実際私もその女性が苦手だった。仕事に集中したい時にも大きな声で話しかけてきて自慢される。無視するわけにも行かないので、いやいや付き合う。それが社会人というものなのであろう。
職場もリモートワークになり、お局と1ヶ月以上あっていなかったが、今日急にlineのグループに投稿があった。
今回もまた自慢話だった。
だけどなぜか今回は嬉しい気持ちになった。そのお局をヨイショするようにみんな発言していく先輩。波風立てないように何も発言しない後輩。
なんだか以前の日常を見ているようで懐かしい気持ちになった。
あんなに嫌だったのに、まさか微笑ましい気持ちで観れる日が来るなんて。
それほどまでに日常が遠くに行ってしまったんあだなとしみじみ思う。
職場の人はみんな個性豊かだ。先輩になればなるほどその個性が滲んでいる。
うるさい人もいれば、寡黙な人もいて、怖そうで優しそうな人もいれば、優しそうで怖い人もいる。
そういう人たちで自分の日常が作られていたのだなあと改めて思う。
ウマの合う人達だけではないが、それもまた人生なのだろう。
良いことも悪いことも今となってはいい思い出だ。
そしてそんな日常を作ってくれた職場が今は好きだ。今は。
仕事というものが自分が想像していたのよりもずっと大切なんだということを知った。
社会に参加しているという感覚は、人間にとって必要な感覚の一つなのかもしれない。
仕事が始まったら、そんなこと思わずに、早くやめたいだの、相変わらずお局は煩わしいだの、思うのだろう。
仕事やお局に感謝しているこの気持ちはすぐに消えるはずだ。
だからこそ、この一瞬の感情を今文章にする。
「#わたしの仕事場」
オードリーが教えてくれた大切なこと
金スマにオードリーの2人が出演していた。
それぞれのエピソードが面白かったが、その中でも特に印象に残っているものがある。
亡くなる直前のお父さんが、「コンビニのアイスクリームを食べたい」と言ったのを聞いて、楽しみは身近にあることを実感したという話だ。
このエピソードを聞いて、私も心の持ち方変えなくてはいけないと思うようになった。
ここ最近自分がやりかった楽しいことがなかなかできず、毎日が退屈で仕方ないと感じていた。
連日天気の良い日が続いている。こんなに天気が良いのであればバーベキューにも行きたいし、旅行にも行きたい。
最高の外出日和だが、どちらの願望も叶うことはない。
出来ることといえば、せいぜい家の近くを散歩するくらいで、 旅行とは程遠いものだ。
散歩をしても楽しくないし、旅行ができるまで、ただ時間が過ぎるのを待つことしかできない。
そんな憂鬱な日々をオードリーが救ってくれた。
確かに遠い先の楽しみを拾いにいくことはできないが、楽しみはいろいろなところに転がっているのだ。
単純に自分の心の持ち方のせいで、それを見逃していただけに過ぎない。
結局、どんな毎日を過ごしていても1日は1日だ。
なら文句を言いながら、ストレスをためながら過ごすのではなく、笑って、幸せに過ごしていた方がいい。
そんな歌詞がミスチルにもあった気がする。
今までは見過ごしていた、身近な楽しみをしっかり咀嚼し、楽しむ気持ちを忘れないように心がけて、一つ一つの物事に当たって行く。
そうすることで素敵な1日が紡ぎ出されるし、それが楽しい自粛期間を作る。
そのためにも今までやってこなかったからと言って批判せず、とにかくなんでも楽しんでみる。
自粛期間でどうしてもダラダラしてしまい、自己嫌悪になることもあるが、どうせ自粛しなくてはいけないのだ。
自己嫌悪にならないで、開き直って、自粛を楽しんでいればいい。
そのためにもアンテナを常に立てて、楽しみを見落とさない。そして自分で楽しみを作り出していく。
テレビのワイドショーでは毎日のように誰かの批判がされているが、見ないようにしている。自粛していることが誰かのせいせで起きてしまった、悪いことのように思える。
誰のせいにするかはもっと後で決めればいい。今は楽しむことだけを考えて行きていこう。
ストレスを怒りという形で発散させているのかもしれないけど、大抵の人はその怒りにとらわれて、ストレスが増幅していくだけだ。
人間は希望がないと生きていけない生き物だ。
ただ、今は遠い未来の希望を夢見る時期ではないのだろう。
レンズをマクロのものに変えて、目の前にある楽しみを見つけていこう。
遠い、叶わない楽しみを見続けていると気づくことはできないが、きっと今の生活にも楽しみだとか幸せだとかは転がっている。
コロナが収束したとしても、おそらくこれまでの生活をすることは難しいだろう。
楽しみや幸せに関しても同じことが言える。
自分の心持ちをかえることで、身近な楽しみを見落とさないようにしようと思う。
お題「#おうち時間」「#自粛期間」「#オードリー」
とにかくめんどくさいと思った瞬間にそれをやる
最近楽しいことがない。
いまいち人生にハリがない。
もっと楽しいことがしたいという気持ちで溢れている。
何が楽しいのかと考えると結局自分の精神状態次第だなとも思う。
精神状態さえ良ければ、大したことでなくとも楽しく思えるし、逆に精神状態があまり良くないと何をしても楽しく思えなくなってしまう。
そして今は後者だ。
頭の中の宿題が溜まっていて、何をしても楽しくない。
この頭の中の宿題さえ片付けることができれば、もっと心は軽くなる。
勝手に頭の中で自分に宿題を課している。
その宿題を片付けることができれば少しは気が楽になるのだろうが、今はそれができていない。
楽な方に流れてしまっている。
そうして自己嫌悪になる。高校生の頃からある感覚だ。
逆に小学生の頃は自己嫌悪とかそういうものを感じていなかったなあとも思う。
自己嫌悪にならない方法は常に自分に課した課題を解決し続けることだ。
めんどくさいをとにかく片付ける。そうすることで自分のことを好きになれる。
部屋の掃除とか片付けるべき仕事とか。そういうことからやっていく。
「これめんどくさいから後にしよう」と考えるのではなく、「これめんどくさいから先にやろう」この習慣をつけるだけで、人生は大きく変わる気がする。
そう思って面倒だと思ったことにとにかく手をつけるようにした。
そうすると驚くほどに心が軽くなった。やらなければならないことが心の重りになって、楽しもうとする心を阻害していたのだった。
この状況下で楽しむことは難しいかもしれないが、結局は自分の心持次第だ。
とにかくやれることをどんどんとやっていく。
そうすることで、心の重りを取ることができ、結果として楽しむことができる。
まだまだやらなければならないことはたくさんあるが、今日自分に課した宿題は終わらせることができた。
今日はよく眠れそうな予感がする。満足感を抱きしめながら、ベッドに入る。
お題「#おうち時間」
人生が前に進んでいないという悩みが付き纏っている
最近ずっと1つの悩みにつきまとわれている。人生が前に進んでいる気がしないという悩みだ。
前に進んでいるという感覚が全くない。
気を紛らわせるために様々な言葉を紡いで、自分を偽ろうと試してみるものの上手くいかない。
一時的には解決した気になるが、結局また元の位置に戻ってきてしまう。
一体なぜこんなことを考えるようになったのだろう。
おそらく学生の頃であれば、数年で卒業というゴールがあったからだろう。
望む望まない関係なく、結局大半の人はそのゴールを切ることになっていた。
そして卒業という区切りが強制的に設けられている以上、強制的に次のステージに移ることができた。
大学生の頃はもうずっと大学生のままでいたいと思っていた。
何時に寝て、何時に起きても構わない。大きな責任も負わなく良い。
大学時代がめちゃくちゃ楽しかったというわけでもないが、そのぬるま湯のような生活に心地よさを覚えていたのは紛れもない事実だ。
そう思いながらも強制的に卒業させられた。
もちろん留年してずっと居座るという方法もあるだろうが、学費を払う余裕もそんなにはなかったので、卒業するほかなかった。
社会人になるのが目前に迫った3月の中旬、夜中の公園で、社会人になるのが怖すぎるあまりその当時付き合っていた彼女に泣き言を漏らしたのをよく覚えている。
社会人になったら今まで享受していた自由がなくなるような気がして、とにかくその現実から逃げ出したくて仕方なかった。
1日1日、時が過ぎていくのが怖かった。
それほど逃げ出したかった社会に参加して、もう数年が経った。
自分が恐れていたように厳しい経験もいくつかしたが、大学生の頃を思い出して懐かしむほどには、今では社会人に慣れてしまった。
1年目の、日々新しいものに触れ、緊張感を持ちながら過ごしていた日々はもうなくなってしまった。
それなりに仕事の仕方もわかってきて、多少のトラブルであれば気を動転させることもなく解決できるようになった。
それとともに日常に惰性という感覚がつきまとうようになってきた。
そしてその感覚は日に日に強くなっていく。
自分の人生が停滞しているような感覚になり、冒頭にも書いたように人生が前に進んでいないという悩みを持つようになった。
ひとまず仕事でしっかりとした実績をつくろうと思って、がむしゃらに働いた。
自分の中でも満足できる、もちろん評価としても立派な成績を収めることができた。
その時は満足感に包まれていて自分が成長した気になっていたが、その満足感も長続きはせず、結局スタート地点に戻った。
何人かの先輩に相談してはみたものの、腑に落ちる回答を得ることは出来なかった。
このエッセイを書けば頭の中が整理されて解決の糸口が見えてくるかと思ったがそうでもなかった。
誰か教えて欲しい。どうしたら人生が前に進んでいる気がするだろうか。
唯一の救いは、この悩みを抱えているということだ。
少なくとも人生をもっと前に進めたいと思っているということだろう。
いつになったらこの悩みを拭えるのだろうか。
解決するのが先だろうか、諦めをつけるのが先だろうか。
自分への戒め
何だか今日はやる気が出ない。体がだるい。原因はわかっている。
昨日ランニングしすぎたからだ。
昼間も散歩に出てそれなりの距離を歩いていたのにも関わらず、
夜中も頑張って、無理してランニングしてしまった。
結局無理すると自分の首を絞めることになるんだなあとしみじみと思う。
こういう日はついどうでもいいことを考えてしまう。
仕事のこともプライベートのことも、様々なことを考えてしまう。
空想を客観的に分析してみると、自分を大きく見せたがる自分がいることに気がついた。
あの人との会話ではさりげなくこういう話をしようとか、後輩と話すときはすごいと思ってもらえるような意見を言おうとか、そういうことを考えている。
やたらとカッコつけたがる自分がいる。
ただ、大きく見せても最終的には自分が困るんだよなとわかっている。
走りすぎと同じだ。
ふと高校の時にそういう友人がいたことを思い出した。
自分の才能のハードルを上げすぎて、結局飛び越えられなかったK君。
ハードルを上げてしまったために、周りから期待の目を向けられ、それを飛び越えられないとなると一気に失望されるあの雰囲気。
その当時はわからなかったが、彼は相当辛かっただろうなと思う。
k君は今何をしているのだろうか。素直な自分をさらけ出すことができるようになってればいいなと思う。
ハードルを上げることは大切だ。高い目標を持って、それに向かって努力して、実際にその目標を達成できれば一回り大きい自分になっているはずだ。
また目標を周りに言うことも効果的だ。後に引けない状況になって必死に努力しようとする。そして結果的に大きな成果につながる。実際似たような経験をしたことがあった。
そういうハードルの上げ方ならいいのかも知れないが、自分を大きく見せることでハードルを上げる方法は良くない。人を不快にするし、自分も苦しむ。
意見を言うのも同じだ。
博識に見せようとして、求められてもいないのに、思ってもいないのに、どこかで聞いた響きの良い言葉を使おうとするクセがある。
相手が求めてきた時に自分の考えた言葉でアドバイスを送る方がかっこいい。
わからなかったら素直に言えばいいし、一緒に答えを考えてあげればいい。
そのほうが自分らしい。
結局誰しも自分がかっこよく思われたいという願望はあるんだろうけど、それをどうさせるかが重要なんだ。
自分から仕掛けに行ってカッコよく思わせるのは最高にダサい。
気づいてもらうくらいが丁度いいんだ。
気づいてもらうまでは不安で仕方がないかもしれないけど、ダサい人間にはなりたくない。
そんな自分への戒めが今日浮かんできた。