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朝のファミレス。
モーニングを食べていると、隣から罵声が聞こえる。
おそるおそる目線を隣のテーブルに移すと。おそらく70歳くらいの男性が奥さんを怒鳴っている。
奥さんの方はどうやら体の具合が悪く、耳も遠いようだった。
何を言っても理解してもらえず、反応もなく、奥さんが思い通りに動いてくれないことに怒っているようだ。
朝のファミレスはお年寄りが多く、意外とよくある光景なので、それ以上は特に気にすることもなく、自分の食事に集中するようにした。
罵声を浴びせることはもちろんよくないことだ。
ただ、最近仕事の後輩にに対して苛立ちを覚えることが多かったので、そのおじいさんの気持ちもわからなくもなかった。
人を変えたり、動かしたりすることって本当に大変なんだよなあ。
自分を変えることは割と簡単にできるが、人を変えることは難しい。
そこで悩みすぎると、底なしの沼にハマってしまう。
結局自分の捉え方を変えるしか、解決策はない気がする。
変わる人は必然的に変わるし、変わらない人は変わらない。
そう思って、割り切るしかない。
言ってしまえば、その人が変わらないのであれば、見捨てるしかない。
そんなことを考えながら、コーヒーのおかわりをしに席をたつと、さっきまであれほど怒っていたおじいさんが楽しそうに、奥さんに話しかけている。
怒られている時には無表情だった奥さんも心なしか笑みを浮かべている。
手の不自由な奥さんの代わりにご飯を食べさせてあげ、代わりに飲み物を取りに行ってあげている。
本気で奥さんのことを大事にしているのだなと思った。
本気で向き合うからこそ怒っていたのだろう。
急に一体何が本物の優しさなのかわからなくなってしまった。
優しさと怒り。飴と鞭。
普段厳しいのに、たまに優しくしてくれる。
現代ではモラハラとかDVとか呼ばれる事象かもしれない。
優しさを手段として使うことは今の社会ではよく思われない。
目的の達成のための優しさは卑しいものに思われる。
本当の優しさがあるのであれば、大きな声で怒鳴ったりはしないのではないか。
あのおじいさんは本当に優しいのだろうか。そんなことを考えてしまった。
それでもやはりあのおじいさんの根底には本物の優しさがある気がしてならない。
奥さんを見捨てない優しさがある。怒りはあくまでその過程だと信じている。
私ももう少しだけ後輩と向き合ってみよう。
何も変わらないかもしれないが、できることは全てやってみよう。
その時少し優しさの正体に近づける気がする。