エッセイってなんだろう

金銭感覚がおかしくなってしまった社会人が、金銭感覚を取り戻すために奮闘する日記。を書いていたら文章を書くこと自体にはまってしまった。とりとめもない話ばかりだが、読んでいて楽しくなるような文章を書けたら。

俗物でいいよね

最近自分は俗物だと思う時がある。

カフェでMacBookをいじって幸せを感じている時だ。

一部では、カフェでMacBookをいじることはダサいと思われているが、私は違う。カフェでMacBookを使ってのんびり文章を書いている時間が至福の時間だ。なんとも言えぬ幸福感に包まれる。

購入したのは昨年だが、随分と昔から使うことに憧れていた。

一体いつから憧れていたのだろうかと考えると、今思えばそれはおそらく大学生の頃だろう。

 

大学の講義で私は普通のノートかルーズリーフで取っていた。

授業の内容をノートにとるというのは、ご飯を箸で食べるのと同じくらいに当たり前のことだった。

そんな常識を提げて初めての講義に挑んだ大学一年生の春、私は大きな衝撃を受ける。

ノートの代わりににパソコンを使って授業を取っている学生がいるのだ。

しかも1人や2人ではなく何十人もがパソコンをノートの代わりにしようしている。

普段パソコンを使わない私に取ってはかなりのカルチャーショックで、自分が使ったことのない機能を自由自在に使ってなんとも見やすいレジュメを作っている。

そしてそんな彼ら彼女らのパソコンを見ると、とてもスタイリッシュなのである。

パソコンそれ自体がまるでスポーツカーのように洗練されたデザインをまとっている。

私が初めてMacBookと出会った日だ。

大学ではパソコンは必須という話は聞いていたので、パソコン自体は持っていたが、私が持っていた5万円もしないパソコンは、もっとゴツゴツしていて、角ばっていて、重かった。

比べる相手にすらならないようなパソコンを持っていた。

学生時代は買う余裕がなかったので、憧れていたにもかかわず、「MacBookダサいよね」というだれが言ったかもわからないセリフに同調したフリをして、自分の気持ちを抑えた。

酸っぱい葡萄の理論そのものであった。

社会人になってからもMacに対する憧れは変わることがなく、カフェで使っている人を見るとついつい見入ってしまった。

ただその時も学生時代と同じように本当は憧れているにも関わらず「ダサいな」と見下す態度をとって自分の気持ちをどうにか整理しようとしていた。

 

そんなある日、仕事でどうしてもパソコンが必要になって、新しいものを買わなくてはいけなくなった。

パソコンを使う頻度は多くなかったので、予算はかなり低く見積もっていた。

ネットで調べて、それなりに安く、高性能のパソコンがあったので現物を見てみようと秋葉原ヨドバシカメラに行った。

現物はあったが、写真でイメージしていたものよりもゴツゴツしていて、かっこいいと思えなかったのが正直な感想だった。

購入するかどうか悩んで、一度冷静に考えるために店の外に出ようとしたところ、ひときわ目を引くものがあった。そうアイツだ。

予算からだいぶオーバーしていたので、買うつもりは全くなかったのだが、一度目に入れてしまったが最後、気がつけばappleのブースにいた。

appleの爽やかな店員さんに言われるがままに触ってみると、外のデザインだけでなく、開いた時の画面の美しさや操作性にも心が奪われた。人生で初めてMacを触った瞬間だった。

それまでの自分にとってパソコンとは必要な時に使うものだけであったが、Macは違った。

特に理由がなくても触っていたくなる、触るだけで幸せになるものだった。

その瞬間にMacを買うこと決意し、後日予算の何倍もする良いMacBook proを購入した。

その当時の貯金の半分を叩いて購入したが、後悔は全くなかった。

カフェで開いてもかっこいいし、家で開いてもかっこいい。

酸っぱい葡萄は甘かった。甘すぎるものだった。

その時初めて自分の憧れているものは周りの意見を聞かず、自分の心に従った方が良いということを学んだ。どうせ生きるのであればワクワクしながら生きた方が楽しい。自分の心をさらけ出すことが許されたような気がした。

 

カフェでMacを使うことを批判する人からすればおそらく自分は俗物だ。

センスがないのかもしれない。ただ嘘をついて見下す態度を取らなくてはいけないのならば、私は俗物で良い。むしろそれが良い。

 

お題「#おうち時間