エッセイってなんだろう

金銭感覚がおかしくなってしまった社会人が、金銭感覚を取り戻すために奮闘する日記。を書いていたら文章を書くこと自体にはまってしまった。とりとめもない話ばかりだが、読んでいて楽しくなるような文章を書けたら。

好き放題に書く

誰かに見られているとそこを意識してしまう。

このブログは幸いなことにほとんど誰の目にも止まらないから、

私は好きなようにかける。

 

最近自分の中で、人間は誰しも迷いの中で、妥協をして結婚を決めるのだろうかと本気で考えている。

もちろんこの人しかいないという強い気持ちを持って結婚に挑む人もいるのだろうが、

おそらくそういう人は少数派だと思う。

きっと誰しもが、迷いながら結婚し、結婚してからも自分の決断を迷う時があるだろう。

だからこそマリッジブルーという言葉がある。

 

ただ自分がどういう結婚をしたいかと言われれば迷いなく、

まるで運命を信じるかのような結婚だ。

これだけ日本が衰退してくると、愛だなんだという前に、生活のために結婚するという人も多く出てくるかもしれないが、

そんな世の中にあっても、愛を信じて、自分の決断を信じて、結婚したいなと思う。

きっとその方が、自分の人生に誇りを持って生きていける。

 

そんなことを言っていたらあっという間に時が経っていくのだろうか。

時間vs運命のせめぎ合いが今始まろうとしている。

私の人生ではどちらが勝つのだろうか。

結果が楽しみだ。

朝のファミレス。

モーニングを食べていると、隣から罵声が聞こえる。

おそるおそる目線を隣のテーブルに移すと。おそらく70歳くらいの男性が奥さんを怒鳴っている。

奥さんの方はどうやら体の具合が悪く、耳も遠いようだった。

何を言っても理解してもらえず、反応もなく、奥さんが思い通りに動いてくれないことに怒っているようだ。

朝のファミレスはお年寄りが多く、意外とよくある光景なので、それ以上は特に気にすることもなく、自分の食事に集中するようにした。

 

罵声を浴びせることはもちろんよくないことだ。

ただ、最近仕事の後輩にに対して苛立ちを覚えることが多かったので、そのおじいさんの気持ちもわからなくもなかった。

人を変えたり、動かしたりすることって本当に大変なんだよなあ。

自分を変えることは割と簡単にできるが、人を変えることは難しい。

そこで悩みすぎると、底なしの沼にハマってしまう。

結局自分の捉え方を変えるしか、解決策はない気がする。

変わる人は必然的に変わるし、変わらない人は変わらない。

そう思って、割り切るしかない。

言ってしまえば、その人が変わらないのであれば、見捨てるしかない。

 

そんなことを考えながら、コーヒーのおかわりをしに席をたつと、さっきまであれほど怒っていたおじいさんが楽しそうに、奥さんに話しかけている。

怒られている時には無表情だった奥さんも心なしか笑みを浮かべている。

手の不自由な奥さんの代わりにご飯を食べさせてあげ、代わりに飲み物を取りに行ってあげている。

本気で奥さんのことを大事にしているのだなと思った。

本気で向き合うからこそ怒っていたのだろう。

 

急に一体何が本物の優しさなのかわからなくなってしまった。

優しさと怒り。飴と鞭。

普段厳しいのに、たまに優しくしてくれる。

現代ではモラハラとかDVとか呼ばれる事象かもしれない。

優しさを手段として使うことは今の社会ではよく思われない。

目的の達成のための優しさは卑しいものに思われる。

本当の優しさがあるのであれば、大きな声で怒鳴ったりはしないのではないか。

あのおじいさんは本当に優しいのだろうか。そんなことを考えてしまった。

それでもやはりあのおじいさんの根底には本物の優しさがある気がしてならない。

奥さんを見捨てない優しさがある。怒りはあくまでその過程だと信じている。

 

私ももう少しだけ後輩と向き合ってみよう。

何も変わらないかもしれないが、できることは全てやってみよう。

その時少し優しさの正体に近づける気がする。

悪意に苛まれる

最近人の悪意を向けられる機会が多い。

もしかしたら、今まで調子に乗っていたツケが回ってきたのかもしれない。

気がつかないふりをして回避しているつもりだが、ボディーブローのようにジワリジワリと効いていて、それについて悩むことが増えた。

どうすればその悪意から解放されるか考えていたが一向に解決策が見つからない。

悩んだ末に、稲盛和夫さんの「生き方」を読んでいると、とにかく願望を強く思えと書いてあった。

悪意に対する解決策ではないが、とりあえず自分がなりたい姿を明確に想像してみると、次第に悪意に対する不安も消えていった。

 

悪意を真に受けてしまう時は自分が走っていない時だ。

止まっている、もしくはスピードが遅いと、些細な風でも転んでしまう。

逆に自分が全速力で走っている時は、横からの風の風が吹いてきても倒れなくなる。

 

確かに自分が全力で何かを目指している時も、おそらく悪意を向けられていたのだろうが、その時は全く気にならなかった。

どうすればその目標を達成できるかだけを考えて、全速力で進んでいたので、悪意を間に受けている暇がなかったのかもしれない。

その時と比べると、最近は明確な目標がなかった。

だから些細な風で人生がブレてしまったのかもしれない。

 

そう思って今自分が明確になりたい姿を考えてみた。

そうすると自然にどうすればそうなれるのか、考えるようになり、頭から悪意に対する不安がどんどん追い出されていった。

人間暇だと無駄なことを考えてしまう。

そうならないためにも、思考を願望で占拠させておくべきだ。

不安が入り込む隙を与えないくらい強く思えるようになれば、その願望も叶うだろう。

カメラ

今週のお題「外のことがわからない」

 

高給取りではない普通のサラリーマンにとって、給付金をいただけるのは大変ありがたい。

幸いなことに生活を切り詰めなくてはならないほど困窮している訳ではないのが、10万円というのは私にとってかなり重みがある。

10万円が入ったら何に使うのかという話題が最近仲間内で上がることが多いが、私はすでに決まっている。

カメラのレンズを購入する。一眼レフのレンズだ。

実を言うと、まだ支給されていないのに、すでにクレジットカードを使って購入してしまった。

カードの引き落とし日より前に給付金が振り込まれるのを祈っている。

 

一眼レフを買ったのは去年のことだ。

何か撮りたいものが決まっていたわけではないのに、カメラを持っている方が人生が豊かになるのではないかと思い、なけなしのボーナスを叩いて買った。

友人にそのことを伝えると、

「大学生になるとみんな一眼レフ買うよね。私も昔買ったよ。」

と言われた。

社会人になって数年経ってやっと世間の大学生が通る道を歩めたようだ。

人生が周回遅れしている気がした。

他の友人に報告しても、「youtuberにでもなるのか」と揶揄された。

正直自分で動画を作ってyoutubeにアップしていたので、図星を突かれ、言い返す言葉が見つからなかった。

 

誰にも「いい買い物だね」と言われなかったが、私自身はとても満足している。

といっても何か特別なモノを撮っているわけではない。

食べ物を撮ったり、町の風景を撮ったりするでけなので、スマホのカメラでも十分なのかもしれない。

写真をたくさん撮って、スマホでは表現出来ないと思ったらカメラを買うべきなのかもしれない。

ただ、カメラを買ったことで日常の些細な変化や発見を大切にできるようになった。

写真を撮るという意識があるだけで、何気ない日常が輝いて見える時がある。

ベランダに差し込んでいる光が綺麗だったりとか、ただのゴミにしか見えないガラクタの山も哀愁をまとっていて芸術のように見えたりだとか、間違いなくそれまでは見落としていた日常の素晴らしさに気がつけるようになった。

わざわざ観光地やインスタ映えするスポットに出向かなくても、家から仕事場までの道に素敵な風景はたくさんある。

大げさかもしれないが、なんてことのない日常がカメラを持つだけで、芸術になった。

 

コロナによって多くの人がこれまでもなんでもない日常の素晴らしさに気がつけたと思う。

外食できること、友人と集まって会話すること。

こんな当たり前だったはずの日常が今ではとても貴重な経験になっている。

 

大げさかもしれないが、カメラも同じようになんでもない日常の素晴らしさを教えてくれる。

当たり前だと思っていることの中に、素晴らしいものがあることを教えてくれる。

お世辞にも綺麗な写真が撮れているわけではないが、それを知ることができただけでもカメラを買ってよかったと思える。

 

10万円でカバンを買ってモノ消費するか、旅行をしてコト消費をするか悩んでいるという話が友人との会話の中で出てくる。

もちろん何を買ってもよいが、カメラを買えば、モノ消費にある買った時の満足感だけではなく、日常が旅行のように楽しくなるというコト消費的な満足感もある。

これを友人に力説したいのだが、もう大学生には戻りたくないので、グッと堪える。

残高が増えない口座を毎日確認しながら、10万円で一気一憂するちっぽけな日常を彩るために、今日もシャッターをきる。

鼻歌とコーヒー

今週のお題「好きなお店」

 

家で作業しようとしてもどうも集中できない。

誰もいないので静かな環境ではあるが、すぐソファーやベットに横になって、関係ないことが始まってしまう。

最初は家で作業しているのだが、徐々に集中できなくなってきて、煮詰まってくると、近くのカフェに出かける。

 

そのカフェはおじさん1人で切り盛りしていて、土日はそれなりに混んでいるが、平日はガラガラだ。どういうカラクリで経営が成り立っているのか気になるレベルにガラガラだ。利用するお客さんの側としては静かなので大変ありがたいが。おじさんの気持ちを考えるといたたまれない気持ちになってしまう。

良くあるおしゃれなカフェではなく、コーヒーがメインのカフェなので、ランチメニューもないし、デザートもない。

他のカフェの場合忙しいお昼時に行ったらドリンク1杯で済ますのは申し訳ないと思ってしまい、お腹が空いていない時には行きづらいのだが、そのカフェであればそもそもメニューがないのでお腹が空いていないお昼時でも、気軽に入ることができる。

店員のおじさんは気さくで陽気でだが、カフェの店長ということもあって普段は静かだ。最低限のサービスを丁寧にしてくれる。その絶妙な距離感が好きだった。

ただ、コーヒーを入れる時に独り言や鼻歌を歌いがちなので、そこだけが気になっていた。

 

コロナの影響を受け、そのカフェは1ヶ月以上休業していた。

家までの帰り道にお店の前を通りすぎると、シャッターが降りている日々が続いていて、おじさんの悲しそうな顔が思い浮かび、こっちまで悲しくなった。

休業している間は、近くにカフェがないのでファミレスに行っていた。

メニューも充実しているし、そこまで混んでもいなかったので、ファミレスもなかなか良かったが、同時にいつものカフェを恋しく思った。

 

今日そのカフェが無事再開したので、行ってみた。

お昼を少し過ぎた時間に行き、お店の外から店内を覗くと、お客さんは誰もいなかった。それどころか店員のおじさんも見当たらない。

まさかまだ」営業していないのか?と思い、恐る恐る中に入ってみると、おじさんが奥のテーブルでご飯を食べていた。

私が中に進むと、慌てて手を止めて、出迎えてくれた。久しぶりの再会だったので、言葉には出さなかったが嬉しかった。

ファミレスのマニュアル通りの丁寧な接客も心地よいけれど、こういう人間味のある接客も好きなんだなと思った。

いつも通りコーヒーを注文すると、おじさんは鼻歌を歌いながら、楽しそうにコーヒーを入れ始めた。おじさんの鼻歌なんて聞きたくないかもしれないが、私にとっても、おじさんにとっても日常が戻ってきたような気がして、鼻歌が心地よかった。

この文章を書きながらコーヒーを飲んでいるが、ドリンクバーのコーヒーより美味しく感じるし、何より作業が捗る。

今までであれば、こんな日常に感謝をしなかっただろうが、今はこういう日々を送れることに感謝しているし、何より幸せだ。

 

そろそろ私が引越しをするかもしれないので、記念にこの文章を描いてみた。

あと何回おじさんの鼻歌を聞けるのだろうか。楽しみだ。

コロナ太り

この前後輩がダイエットをしていると言っていた。

正直十分痩せているので、ダイエットをする意味がわからなかったが、どうやら理想の体重があるらしく、そこを目指しているようだ。

目指している体重が痩せすぎの範囲に入っていて、健康にも良くないと思ったので先輩として止めた方がいいのではないかと思った。

ただ、どうせ言ったところでやめないし、何より「あなたのためにやっている訳ではないので、あなたにはどう思われてもいいです。」という雰囲気を全身にまとっていたので、怖くていうことができなかった。

止めてあげるのが優しさなのか、なりたい自分を追求させてあげるのかが優しさなのか未だに答えはわからない。

もし、そのままダイエットをして健康に害が及んだら、止めてあげるのが優しさだったなと思うだろうし、逆にダイエットに成功してよりイキイキと日常を送っていたら、止めないことが優しさだったんだなと思うだろう。

そう考えると、優しさって結果に依存しているところがあるなと思った。

 

コロナのせいで体重が3キロ増えた。

コロナのせいというよりは、自粛生活で楽しみが食べることだけだったので、ひたすら食べて飲んでいたらいつの間にか太っていた。

本来なら痩せることが体に良いことのはずだが、もしかしたら将来大飢饉が起きて、太っていることで命が助かれば、ダイエットしないことが命に対する優しさにつながるだろう。

だからこそこの文章を書きながら、デザートを食べに行くかどうか悩んでいる。

 

後輩が私にダイエットの話をしてきたのは、もしかしたら、お前もした方がいいぞというメッセージだったのかもしれない。

「だらしなさは体型に現れるんですよ」と私に向かって言ってきたのは、暗に悪口を言っていたのかもしれない。

優しい先輩である私はそれに気がつかないふりをして、会話を進めた。

小さな違いが

先日、カメラのレンズを買った。7万円もするものだ。
カメラをやっている人からすればレンズは大体そんなものだろうと思うかもしれないが、やってない人からすればレンズに7万円をかけるなんて信じられないはずだ。
私自身、カメラを始めたのが最近で感覚的には後者の方が近い。
本当に7万円の価値があるのか疑心暗鬼だった。
7万円あれば、そこそこいい旅行にも行けるし、ブランド物の財布だって買える。
それでも友人はレンズが違うだけで大きく違うと強く主張してくる。
多少の迷いはあったものの、コロナの給付金も支給されるということなので、ここは思い切って買ってみた。

 

結果としては、大満足だ。
今までと同じカメラを使っているのか?と疑問に思うほどに、綺麗に写っている。
買い物で、ここまで満足し感動できるのは久しぶりだったので、本当に買ってよかったと思っている。
その日は小学生がおもちゃを買ってもらった時のように一日中ウキウキしながらシャッターを切っていた。
ただ、その写真をカメラをやっていない人に見せても、私が感じた感動を共有することができなかった。
「なんか綺麗な気もするけど、7万円の価値はないんじゃないかな」誰もが口をそろえてこう言った。
それでも私にはわかる。その小さな違いが大きな差を生むのだ。
誰にもわかってもらえないかもしれないが、その違いが自分の人生の満足感を変えてくれる。

 

この前ファミレスに行ったとき、1人用のテーブルに通された。
お昼の時間帯なので仕方ないかと思いつつも、平日ということもあり比較的お店は空いていたので、隣のテーブルをくっつけてほしいなと思いながら食事を取っていた。
特に客足が増えることもなく、食事も終わったので食器を下げてもらって、パソコンで作業をしていたところ、若い店長と思しき男性がテーブルをくっ付けてくれた上に、ゆっくりしていってくださいねと言ってくれた。
小さな優しさかもしれないが、その優しさが私の荒れている心を癒してくれた。
そういう小さな気遣いが大切なんだと店長に教えてもらった気がした。

 

小さな違いはきっとほとんどの場合気がついてもらえないかもしれないが、だからといって無視してしまえば、自分に嘘をつくことになる。
自分にとって最良のものをつくることを意識しなければ、いつまでたっても良さを気づいてもらえないだろう。
「神は細部に宿る」という言葉があるように、小さな違いを追求できるかどうかで、その作品の良さは変わってくるはずだ。
小さな違いを作るというのは結構めんどくさい。
報われるかどうかもわからない上に、そもそも気がついてもらえないかもしれない。
それにも関わらずの違いを作り続けることは相当根気のいる作業だ。
それでも私はその違いを作り続けられる人間で居たい。ズボラな人間で不安だけどいつか報われることを信じて作って行こう。

 

ちなみに、そのファミレスで頼む予定のなかったデザートを頼んだ。
私の些細な恩返しだ。